堤ヶ岡飛行場跡(前橋陸軍飛行場)とは
旧群馬町の菅谷に飛行場があったのは知っていたけれど、正確な位置は把握していなかった。当時を知ってる人はみんな亡くなってしまい確認するすべもなかった。
ところが2023年に高崎市の広報に堤ヶ岡飛行場跡が掲載され、一気に過去の謎が解けたのでここにまとめますね。
前橋陸軍飛行場は、現在の群馬県高崎市に1944年から1945年まであった大日本帝国陸軍の軍用飛行場でした。正式な名称は前橋飛行場ですが、周辺住民には地名から「堤ヶ岡飛行場」や「菅谷飛行場」と呼ばれていました。
太平洋戦争の開戦により、航空要員の急速な養成を目的とした教育用飛行場のひとつが堤ヶ岡飛行場であった。
1944年8月1日に飛行場が完成し、宇都宮陸軍飛行学校前橋教育隊が創設され、1945年2月からは防空戦闘機・爆撃機が配備されました。
敷地面積は約160町歩に及び、堤ヶ岡村を中心に国府村、中川村(現:高崎市)にまたがって存在していました。旧国府地区の塚田や引間地内からの発掘調査では対空機関銃砲座や迫撃砲弾が発見されました。
下記は対空機関砲銃座発見地点
発掘調査で発見された対空機関砲銃座跡
前橋陸軍飛行場は、宇都宮陸軍飛行学校分教場や熊谷陸軍飛行学校分教場となっていました。戦争末期には、特攻訓練の基地になり、更に格納庫を利用して中島飛行機の疎開工場ができました。そこで数十機の4式戦闘機疾風が完成したようです。
当時の堤ヶ岡飛行場
昭和20年(1945)7月10日、飛行場近くの堤ヶ岡国民学校「現:堤ヶ岡小学校」は艦載機の機銃掃射うけ大きな被害が出ました。
また、空襲時には日本の戦闘機による迎撃は無く、対空射撃もほとんど無い状態であり、爆弾やロケット弾による攻撃で航空機や軍用機施設は破壊され、飛行場周辺を中心に民間人にも死傷者が出たようです。
堤ヶ岡飛行場跡(前橋陸軍飛行場)の場所
終戦後、8月17日には軍属の帰郷と建物の破壊が始まり、27日は資材の搬出も始まりました。前橋陸軍飛行場は米軍に接収されたが使用されることはなく、プロペラが外された四式戦闘機が並んだままの荒地と化していきました。
米軍撤退後に救済策として飛行場の農地転用が行われました。
現在のイオンモール高崎がある南側周辺の農地が飛行場跡で終戦後、間もなく飛行場は農地に開拓されて現在に至っています。
現在の堤ヶ岡飛行場跡周辺
今後群馬県と高崎市は、飛行場跡地において、デジタルを活用した最先端のまちづくりを共同で推進していくと発表しています。
これに伴って、どんどん当時の面影は消えゆくでしょうね。寂しいけど…
現在、一部施設のコンクリート基礎や仮設滑走路用の金網が棟高町の住宅地周辺に残されています。
堤ヶ岡飛行場に列ぶ陸軍4式戦闘機疾風後ろは赤城山
高崎市広報【戦争遺跡の発掘陸軍前橋飛行場】菊池実著より出典
Googleマップ・Wikipediaより参考
場所:堤ヶ岡飛行場跡
住所:群馬県高崎市棟高町付近
駐車場:なし