長野堰用水の円筒分水の読み方と歴史についてまとめています!
長野堰用水と書いて、(ながのぜきようすい)と読みます。
長野堰用水は、古くは室町時代より農業や生活に利用され、高崎市の発展の礎として大きく貢献している施設です。
高崎や水田地帯は、烏川と伊野川に挟まれていながら、その台地状の地形から水の恩恵を受けにくい地域でした。そのため、古来より水争いが絶えない地域でした。
水利に乏しいこの地域を潤すために長野堰用水の開削が始まったのは、ナント約1100年前と言われています。
1814年にはサイホンを新設して、榛名白川を横断したという記録が残っており、当時から高い土木技術と知識があったことが明らかになっています。
1901年に建てられた石碑には、古くから農業の発展のみならず、人々の生活を大きく支えてきた施設であることが刻まれています。
現在では一級河川烏川から取水し、幹線水路は途中の水門で分水しながら円筒分水まで約9キロ流れ、さらにそこから4支線に分岐しています。
この分岐した4支線は、現在も約340ヘクタールの水田を潤しています。
長野堰用水の円筒分水は、昭和37年(1962年)に完成しました。
円筒分水は、下流域の倉賀野堰、矢中堰、地獄堰、鳴上堰に、平等に分配するための施設です。
分配割合は多い順に、倉賀野堰に37%、矢中堰に31%、地獄堰に28%、鳴上堰に4%、となってます。
各地区の田畑を潤しながら、最終的には「倉賀野堰」は烏川へ、矢中堰、地獄堰、鳴上堰はそれぞれ井野川に流入していきます。
長野堰の歴史
長野堰は約千百年前に、上野国守の長野康業により開削され、箕輪城主の長野業政が今の長野堰の原形に整備したと伝えられています。
明治時代になってからは、用水不足を補うため榛名山に隧道を貫通させて榛名湖の水を河川に流入し、合流する烏川の増水を計ってきました。
昭和24年土地改良法が制定され、長野堰土地改良区となり、現在施設の維持管理を行っています。
長野堰用水の円筒分水は、昭和37年(1962年)に完成しました。
長野堰用水の役割
室町時代より農業や人々の生活に利用され、高崎市発展の礎となりました。
初代高崎城主の井伊直政が城下町を築く際に、長野堰から引水して城と城下に水路を張り巡らせた?と言われます。
水路の水は飲料水や防火用水として利用され、染物、酒造、醤油、豆腐などの産業が栄えました。
また、高崎城の堀の水も長野堰から引水された??と言われています。
長野堰用水の施設遺産登録
2016年に「世界かんがい施設遺産」に登録され、国際的に価値が認知されました。
水がない長野堰用水の円筒分水
今日は2025年3月12日、東日本大震災から14年経った次の日です。長野堰用水の円筒分水に来てみたが水がありません。ゴミが浮いてカモが遊んでいる光景でした。
どうしたのかな?渇水などの天災かな?
この通り倉賀野堰にも水は分水されてません。水がない理由はわからないが、春の花が咲き始め、何も無いように小学生が下校してました。
場所:長野堰用水の円筒分水
住所:群馬県高崎市江木町134
見学:無料
駐車場:特になし
長野堰用水の円筒分水のアクセス