群馬B級スポット

群馬県太田市の旧中島飛行機地下工場跡を空撮!

中島飛行機地下工場跡を空んだ

 

中島知久平が創設した旧中島飛行機。終戦末期に1500人〜3000人もの作業員によって過酷な労働が続けられた旧中島飛行機地下工場跡を空撮しました。旧中島飛行機地下工場は完成を待たずに終戦となってます。

 

かつて巨大な軍事工場の旧中島飛行機地下工場跡

 

かつてこの地に巨大な軍事工場があったと今言われてもまったくピンとこない。巨大な軍事工場は、都市対抗野球でも活躍する太田市にある富士重工業(現株式会社SUBARU)
昭和を代表するスバル360や今なおファンが多いラビットスクーターを開発したメーカーと聞けばピンと来る人も多いと思う。

 

その前身であるメーカーが、当時高い技術力を備えていた日本の航空機、エンジンメーカーだった中島飛行機製作所中島飛行機は当時東洋最大であり、世界有数の航空機メーカーだった。創設者は元海軍機関将校の中島知久平。大正6年に中島知久平がこの地に巨大な軍事工場を築きました。

 

第二次大戦では、制空権を米軍に握られた終戦間際に中島飛行機が爆撃の主要攻撃目標とされ、太田市上空にB29が飛来しては徹底的に破壊されました。その激しい空襲を避けるために建設を早期に進められたのが今回私が訪れた旧中島飛行機太田地下工場跡。旧中島飛行機太田地下工場跡は今も人目に付きにくい丘陵地に残っていました。

 

旧中島飛行機地下工場跡

 

旧中島飛行機地下工場跡は八王子山公園墓地内にあり、入り口には鎖が巻かれているだけで鍵はかかっていません。

 

今のここの敵はアメリカ軍や連合軍ではなく、ハチに毒を持つマムシとなっております。
ハチにマムシが活発に行動するこの時期、恐る恐る注意しながらいよいよ見学へ。だって刺されたり咬まれたりしたらシャレにならないもん!
チェック
それと零戦(ゼロ戦)と聞くと三菱重工の開発、生産と思うかも知れませんが、実は中島飛行機でもライセンス生産がなされていました。しかも三菱重工よりも多くのゼロ戦は中島飛行機が生産していました。

 

三菱重工製のゼロ戦と中島製のゼロ戦ではわかりやすい区分けがあり、それはボディー後部の製造番号のところに社名が記載されていました。また、機体胴体に書かれている日の丸にも違いがありました。ちなみに中島製は日の丸に白い縁取りがしてあった。
従って上記写真のゼロ戦は三菱重工製になります。

 

ハチ&マムシに注意看板(旧中島飛行機地下工場跡)

 

旧中島飛行機地下工場跡の案内看板をまとめると、
トンネルは太平洋戦争の最中、昭和20年(1945年)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦。終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が開始。調査に訪れた日には、すでに全ての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中を覗くことができたといいます。
この地下工場の掘削は、昭和20年1月から始まり、1500人(米国戦略爆撃調査団の報告)が十時間交替で働いたといわれます。4月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた280人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和20年5月から終戦後の11月までの七ヶ月間に、50人の中国人が無残な死を遂げました。
昭和20年11月1日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から捧持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。
石碑には85名の殉難烈士の氏名と、帰国することが出来た中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和28年(1953)8月には遺骨の発掘慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に収められています。他の資料によると、280人の中国人のほか、2000人を越える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、あわせると3000人以上にもなります。
なお計画された半分で頓挫と書いてある。

 

旧中島飛行機地下工場跡案内看板

 

第一、第二工場と案内板の図を見てびっくりしました。現在太田双葉カントリークラブの地下に想像を超える規模の工場を建設する予定でした。

 

戦局が悪化して本土決戦に備え、終戦7ヶ月前に特攻機の製造を目指したが建設途中に終戦になったといいます。

 

旧中島飛行機地下工場の地図

 

現在丘陵は八王子山公園墓地になっていて、洋風の墓地がたくさん並んでいます。見晴が良く景色がいいので、かつてこの地で悲しい過去があったなんて書いてあっても信じられない。

 

当時の計画では1トン爆弾に耐える地下工場であり、規模は約2ヘクタールと巨大なものであった。操業開始は20年11月としていたが結局叶わなかった。

 

八王子山公園墓地

 

地下に通じるトンネルが見える旧中島飛行機地下工場跡

 

太平洋戦争終結まで中島飛行機は軍の需要に応えて軍用機や航空用エンジン開発に取り組んだメーカー。他にもゼロ戦を製造していた三菱重工業や川崎航空機などが太平洋戦争時の大手航空機メーカーだった。ゼロ戦は藤岡市出身の堀越二郎さんが設計者として有名ですよね。

 

ライバルだった三菱がゼロ戦なら、中島飛行機はプラモデルでもお馴染みの名機、隼を送り出した。隼は陸軍を代表する戦闘機だった。ちなみにゼロ戦や紫電改のエンジンは中島飛行機が得意分野を活かして開発しています。

 

旧中島飛行機地下工場跡敷地

 

案内看板から奥に進んでいくと左側に地下に通じるトンネルが現れた!第一工場に通じるトンネル?トンネル前には水が流れていて、いかにもヘビが住みやすい場所となっている。

 

トンネルも気になるけど目の前のヘビも気になる。頭の中はフィフティーフィフティーだ!

 

旧中島飛行機地下工場跡がこれ

 

地下工場の建設作業に携わったのは当初1500人とされ、10時間交代の突貫工事だったといわれている。食料もままならない終戦間際に毎日10時間も働かされていては、今でいうブラックもブラック、真っ黒けなブラック企業ですよね。

 

腹が減っては戦も出来ぬ!ことわざの真逆なことがこの地で秘密裏に行われていた。そりゃー過労で死んじゃうよー。

 

旧中島飛行機地下工場跡トンネル(立入禁止)

 

旧中島飛行機地下工場跡トンネル

 

トンネルの内部が実際どのようになっているのか気になったけど、ここには詳しく書かれていないので謎のまま・・・

 

しかし昔、子供がトンネルに入って迷子になったという逸話があり、内部はとても広いようです。  

 

この地に住んでなくて良かった。私は子供の頃からどちらかといえば好奇心が旺盛だったから、ここに入って迷子になってたかも知れない・・・な。

 

旧中島飛行機地下工場トンネル

 

スポット:旧中島飛行機地下工場跡
住所:群馬県太田市西長岡町付近
見学料:無料
駐車場:あり

 

旧中島飛行機地下工場跡の場所とアクセス地図