宝塔山古墳(国史跡)の石室と上空を空撮しました!
精巧な石室が見事な宝塔山古墳
国の史跡に指定されている宝塔山古墳の石室及び上空をドーローンで撮影してきました。宝塔山古墳は光厳寺(天台宗)に隣接して、蛇穴山古墳と挟まれる形で点在しています。古墳の見所は、巧妙かつ見事な仕事ぶりの石室で、切石切組積みの両袖型横穴式石室です。
宝塔山古墳の見所は両袖型横穴式石室です
まずは宝塔山古墳の読みは(ほうとうざんこふん)です。宝塔山古墳の見所は何と言っても精巧に作られている切石切組積みの両袖型横穴式石室。
ここに開運なんでも鑑定団でお馴染みの中島誠之助さんを連れてきたら、『いい仕事してますねー』や『大事になさってください』と言うでしょうねー。
まー石室外部も内部も所々に巨石を使って、ホントこの時代にしてはよく出来ていると思い感心しました。
宝塔山古墳の横穴式石室は、羨道部に前室部、玄室の三室にわかれています。全長は約12mもあり、奥の玄室はこのように真っ暗!
構築されてる切石が見事と言うしかない!玄室に続く羨道部に前室部の巨岩が見事に切ってあり組み合ってます。
これが7世紀末とか8世紀初頭の技術だというからホントに驚きだ!
※玄室(げんしつ)とは、古墳の内部にあって棺を納める室のこと。羨道とは(えんどう・せんどう)と読み、横穴式の古墳で玄室に通ずる道のことです。
古墳は三段築造で南北辺が54m、東西辺が49m、高さが12mの大きな方墳です。南側に幅24mの周堀状の地形が有り、これを含めると一辺が100mの規模となってます。
復原図にあるように古墳の石室は南側にあります。(間違いやすいので注意、駐車場の反対側です)
駐車場側にある宝塔山古墳の看板に上に通ずる階段。しかし、こちらからは石室に行けません。上ってこの先にあるのは墓地です。
宝塔山古墳の頂上にあるのは総社城主だった秋元氏の歴代墓地。説明板を見ると秋元氏はは1601年の関ケ原の戦いで活躍した人物です。こちらは市の指定史跡に登録されてました。
入口が整備されているのは専門業者のおかげ。 草刈り機を持った複数人の業者の方が汗をかきながら整備をしてました。整備前は草がボーボーだった。
隣接する光厳寺と北側から見た宝塔山古墳。墳丘には彼岸花がキレイに咲いていました。この右側が天台宗の光厳寺。
神秘的空間の宝塔山古墳の見事な横穴式石室
こちらが石室に行ける宝塔山古墳の南側。階段を上っていくと左側に墓地があり、正面突き当りが宝塔山古墳の横穴式石室になります。
横穴式の石室は、隣接する蛇穴山古墳も見事だけど、規模からいえば宝塔山古墳の方が上。開運なんでも鑑定団でお馴染みの中島誠之助さん風に言えば、『いい仕事してますねー』となる。
史跡 宝塔山古墳
一辺の長さ約55m、墳丘高11mの規模を誇る方墳である。この規模は方墳としては全国的に見ても大きい。主体部は墳丘基壇上に造られた横穴式石室で、羨道、前室、玄室の三室にわかれている。石室の壁は精巧に加工した切石を使用して積み上げ、随所に切組積の手法もみられる。特に天井石及び玄室入口の玄門の加工は見事である。石室の規模は、全長12.4m、玄室長3.3m、同奥幅3.02mである。玄室には家形石棺がある。その底部は四辺ともに格狭間の形にくりぬかれ、古墳への仏教文化の影響を物語っている。この古墳は、県内古墳の最終末期に造られたもので、7世紀末から8世紀初頭の頃に位置づけられよう。(案内板石碑より)
玄室に続く神秘的な石室内部。組んである石が城の石垣のように大きい!
石室内部の玄室にある大きな家形の石棺。普通に運ぶのも大変なのに、玄室ギリギリの大きさの石棺はどうやってここに納めたのだろうか?タイムマシンがあれば石棺の納入に立ち会ってみたいものだ!
石棺の脚部に隙間があるのは仏教文化の影響を受けているらしい。
南北54m、東西49m、高さ12m、三段築造の方墳。
奥は立派な楼門がある光巌寺(こうがんじ)。天台宗の寺院である秋元山江月院光巌寺は、慶長12年(1607年)に藩主だった秋元長朝により開基されてます。鐘楼もあり、とくに本堂の瓦屋根がスゴイ!
場所:宝塔山古墳(横穴式石室)
住所:群馬県前橋市総社町付近(光厳寺に隣接)
見学料:無料
駐車場:あり
国指定史跡:1944年(昭和19年)登録
宝塔山古墳の場所と地図